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Hirayama Ikuo & the Silk Road

平山郁夫とシルクロード

平山郁夫について
シルクロードの旅路

平山郁夫について

幼少期
学生時代
20代
30代
40代
50代
60代
70代

平山郁夫 幼少期

1930年(昭和5年)

6月15日、広島県豊田郡瀬戸田町(現・尾道市瀬戸田町)北町の旧家に、父峰一、母ヒサノの次男(第三子)として生まれる。

1935年 5歳頃
1943年(昭和18年)

4月、広島市の修道中学校に入学。

1943年 家族 後列右端
1945年(昭和20年)

8月6日、修道中学3年在学時、学徒勤労動員先の広島陸軍兵器支廠(爆心から3km)で作業中、被爆する。

1946年(昭和21年)

2月、広島県立忠海中学校(現・広島県立忠海高等学校)に転校。

平山郁夫 学生時代

1947年(昭和22年)

4月、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科予科に入学。

1948年 東京美術学校

平山郁夫 20代

1952年(昭和27年)

3月、東京美術学校日本画科を卒業。卒業制作《三人姉妹》(東京藝術大学大学美術館所蔵)。4月、東京藝術大学美術学部日本画科副手に就任。主任教授は前田青邨。

1952年頃 制作風景
1953年(昭和28年)

9月、再興第38回日本美術院展覧会(以下、院展)に《家路》(広島県立美術館蔵)が初入選。

1955年(昭和30年)

5月7日、前田青邨夫妻の媒酌により、東京美術学校の同期生松山美知子と結婚。板橋区双葉町のアパート睦荘の六畳一間に新居をかまえる。第40回院展に《浅春》が入選、日本美術院院友に推挙される。

1955年 結婚
1956年(昭318年)

9月、第41回院展に《ひととき(憩)》が入選。11月、長男・廉が生まれる。

1959年(昭和34年)

この頃から白血球が減少する症状があらわれ、苦しむ。3月、長女・弥生が生まれる。9月、再興第44回院展に《仏教伝来》(佐久市立近代美術館蔵)が入選。自身、「画家としての本当のスタート」という転機となった。12月、東京都板橋区成増町に画室を新築、転居。

平山郁夫 30代

1961年(昭和35年)

9月、再興第46回院展に《入涅槃幻想》(東京国立近代美術館蔵)を出品、日本美術院賞(大観賞)を受賞、特待(無鑑査)に推挙される。

1962年(昭和37年)

10月、第1回ユネスコ・フェローシップによるヨーロッパへの留学に出発。研究題目は「東西宗教美術の比較」で、イタリア、フランス、イギリス、オランダ、ドイツを6ヶ月にわたって歴訪。《行七歩》(奨励賞)を受賞。

1962年頃 ヨーロッパ
1962年 成増の自宅前にて家族写真
1963年(昭和38年)

6月、東京藝術大学美術学部日本画科非常勤講師に就任。東京藝術大学陳列館において欧州風物写生展開催。

1964年(昭和39年)

6月、日本美術院同人に推挙される。9月、東京藝術大学美術学部日本画科講師に就任。

1965年(昭和40年)

6月、「第1回個展」日本橋三越で開催。

1966年(昭和41年)

6月、東京藝術大学第1次中世オリエント遺跡学術調査団に参加、カッパドキア地方に遺る洞窟修道院の壁画を模写。

1967年(昭和42年)

3月、約1年間、法隆寺金堂壁画再現事業に携わり、第3号壁を担当。9月、第52回院展に《卑弥呼壙壁幻想》を出品。

1967年 成増の自宅で法隆寺金堂壁画を再現模写
1968年(昭和43年)

7月、アフガニスタンから中央アジア天山山脈周辺のタシュケント、サマルカンドなどの遺跡を取材。はじめての本格的なシルクロード取材となる。

1968年 バーミヤン(アフガニスタン)

平山郁夫 40代

1972年(昭和47年)

8月、神奈川県鎌倉市二階堂に画室を新築、転居。

1973年(昭和48年)

5月、東京藝術大学教授に就任。5月、「アレキサンダー大王東征路の考古学的調査団」(団長、江上波夫)に参加、アフガニスタンのカーブルからトルコのイスタンブルまで陸路シルクロードの遺跡を取材。7月、アッシジのサン・フランチェスコ修道院で壁画を模写。9月、文化庁から高松塚古墳壁画の現状模写を委嘱され、模写班の責任者として翌年3月まで従事。

1974年(昭和49年)

9月、アフガニスタン、パキスタンを取材。12月、《古代東方伝教者》をバチカン宮殿内現代宗教美術コレクションに寄贈。ローマ法王パウロ六世に拝謁、聖グレゴリオ騎士銀褒章を贈られる。

1975年(昭和50年)

6月、中国人民対外友好協会に招かれ、日本美術家代表団の一員として北京、大同、上海、西安などを訪問。

1975年 薬師寺高田好胤師と
1976年(昭和51年)

4月、「平山郁夫シルクロード展」日本橋髙島屋で開催。

1976年 テヘラン展
1978年(昭和53年)

5月、「平山郁夫展 中国を描く」日本橋三越で開催。

1979年(昭和54年)

9月、再興第64回院展に《広島生変図》(広島県立美術館蔵)を出品。はじめて敦煌莫高窟を見学。

1979年 パルミラ
1980年(昭和55年)

3月、ボロブドゥール仏教芸術視察団に参加。5月13日、薬師寺玄奘三蔵院壁画絵始めと平山郁夫絵所開きの式が執行される。鎌倉の自邸に設けた絵所(アトリエ)は、庫庵と命名された。

平山郁夫 50代

1982年(昭和57年)

3月、東京藝術大学日本画科大学院生の中国古美術研修旅行に同行、故宮博物院、雲岡石窟、龍門石窟などを見学。9月、東京藝術大学敦煌学術調査団の予備調査のため中国を訪問。第67回院展に《絲綢之路天空》を出品。

1983年(昭和58年)

2月、「平山郁夫展 天竺への道」日本橋髙島屋で開催。9月、第1次東京藝術大学敦煌学術調査団を率いて現地を訪問。

1988年(昭和63年)

6月2日、文化財保護振興財団が発足、理事に就任。12月、ユネスコ親善大使に任命される。

1989年(平成元年)

11月、日本楼蘭学術文化訪問団の団長として、中国新疆ウイグル自治区の楼蘭を訪問、遺跡を調査、取材。12月21日、東京藝術大学第6代学長に就任。

1989年 楼蘭にヘリで到着
1990年(平成2年)

5月、「平山郁夫楼蘭紀行展」日本橋髙島屋で開催。

平山郁夫 60代

1991年(平成3年)

4月、アンコール遺跡救済委員会の第1回アンコール遺跡調査団の団長としてカンボジアを訪問、アンコール遺跡を調査。

1992年(平成4年)

9月、アメリカ、フランス、ドイツ、イギリスの主要な美術館を歴訪、館長らと保存修復について会談。

1992年 広島 原爆ドーム
1993年(平成5年)

8月、「アンコール遺跡救済展―平山郁夫のメッセージ」日本橋高島屋で開催(東京、大阪、名古屋など国内16会場、パリ、プノンペン、スイスを巡回)。11月、文化功労者として顕彰される。

1994年(平成6年)

5月、「世界文化財赤十字寄金募集 平山郁夫シルクロード展」日本橋三越で開催(23会場を巡回)。7月1日、文化財保護振興財団理事長に就任。9月28日、大英博物館東洋絵画修復施設開所式に出席。11月21日、アンコール遺跡修復事業現地開始式に出席。

1995年(平成7年)

1月22日、ダボス会議でクリスタル賞を受賞。5月、南京城壁保存修復協力事業開始式に参列、南京市栄誉市民となる。9月、ユネスコ特別顧問に就任。

1996年(平成8年)

4月1日、日本美術院理事長に就任。5月、サラエボを取材。10月20日、フランス大統領からレジォン・ドヌール勲章(オフィシェ)を授与される。

1997年(平成9年)

4月6日、故郷の広島県瀬戸田町(現・尾道市)に平山郁夫美術館が開館。11月、ユネスコから金メダル表彰を受ける。

1998年(平成10年)

3月、滋賀県守山市に佐川美術館(平山郁夫館)が開館。11月3日、文化勲章を受章。

1998年 文化勲章
1999年(平成11年)

4月、米スミソニアン協会から日本人として初めてジェームズ・スミソン賞を受賞。11月、フランス学士院外国人会員に選ばれる。

1999年 敦煌莫高窟
2000年(平成12年)

4月、山梨県に八ケ岳シルクロードミュージアムが開館。12月31日、薬師寺玄奘三蔵院《大唐西域壁画》が完成。

2000年 「大唐西域壁画」の完成

平山郁夫 70代

2001年(平成13年)

3月、タリバンによるバーミヤン大石仏破壊に対し抗議のアピールを行う。8月、フィリピンのマグサイサイ賞(国際理解部門)を受賞。マニラでの授賞式に出席。
10月、国際交流基金賞を受賞。

2002年(平成14年)

5月、アフガニスタンの文化財復興についてユネスコ主催の国際会議に出席。8月、アフガニスタンを再訪。9月27日、中国政府から文化交流貢献賞を贈られる。

2003年(平成15年)

8月、「流出文化財を守れ―アフガニスタン そしてイラク」展 日本橋三越で開催。国内7会場を巡回。

2004年(平成16年)

1月、朝日賞受賞。7月、高句麗古墳群がユネスコ世界遺産に登録される。18日、平山郁夫シルクロード美術館開館。12月20日、東京藝術大学学長を退任。

2005年 金婚式
2007年(平成19年)

9月、「平山郁夫 祈りの旅路」展 東京国立近代美術館、広島県立美術館で開催。

2008年(平成20年)

4月、「日中平和条約締結三十周年記念 平山郁夫芸術展」中国・北京で開催。「日仏交流150周年 平山郁夫シルクロード展」フランス・パリで開催。

2009年(平成21年)

9月、再興第94回院展に《文明の十字路を往く―アナトリア高原カッパドキア トルコ―》を出品。12月2日、東京都内の病院で永眠。享年79歳。生前の功績に対し、従三位が追贈された。

Profile

平山郁夫

Ikuo Hirayama

昭和5年(1930)、広島県瀬戸田町(現在の尾道市)に生まれ、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科を卒業し、戦後日本を代表する日本画家の一人として活躍しました。15歳の時、広島市で被爆した体験は、その後の人生と創作に大きな影響を与え、平和をテーマとする芸術へとつながっていきました。
昭和34年(1959)、《仏教伝来》を発表して以降、日本文化の源流を求めてシルクロード各地を取材し、砂漠の風景やラクダのキャラバン、遺跡、異国の人々を描いた作品を数多く制作しました。さらに、文化や芸術を通じた国際交流を重視し、世界各国の文化財保護活動にも力を注ぎました。東京藝術大学学長、日本美術院理事長、ユネスコ親善大使などを歴任し、平成10年(1998)に文化勲章を受章。平成21年(2009)、79歳で逝去しました。

Message

シルクロードは、名も無い人びとが踏み固めた道だった。
それは生活上、必要な道であり、人びとは当時の貿易のために、灼熱の地を横切って旅をした。
文化の交流に役立とうなどとは彼らは思ってもみなかったであろう。
しかし、結果的には彼らによって文化は西から東へ、東から西へと運ばれた。
死の恐怖を乗り越えていく彼らには、国境や言葉の違いや民族、人種の違いなどはまったく問題にならなかったに違いない。
キャラバンを率いる商人もオアシスの住民も、お互いにお互いを必要としあった。
時には凶暴な盗賊が出没したり、大きな軍隊が押し寄せてきたけれど、それさえなければ、彼らの間には真の友好関係が成り立っていたにちがいない。
平和とは、そうしたところに実現するのだと思う。

平山郁夫
『平山郁夫全集』より抜粋

パルミラ遺跡を行く・夜
古代ローマ遺跡 エフェソス・トルコ
シルクロード行くキャラバンー東・太陽ー
古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノ
平成の洛中洛外(右隻)
熱砂塵黒
文明の十字路を往く アナトリア高原 カッパドキア トルコ
流水間断無(奥入瀬渓流)
コリントの遺跡
敦煌石窟九層楼

パルミラ遺跡を行く・夜

シルクロード 平山 郁夫 2006 紙本彩色 171.0×364.0cm

晩年の平山郁夫はシルクロードの砂漠を旅するラクダの隊商(キャラバン)を描いた大作「大シルクロードシリーズ」を相次いで発表した。それは画家が終生描いてきたシルクロード絵画の集大成であり、本作はそのうちの代表作。シリアのパルミラ遺跡を背景にラクダの隊列を朝陽のオレンジ色と月夜の群青色であざやかに対比している。近年、過激派組織による破壊や、シリア軍による奪還が報じられているパルミラ遺跡だが、いにしえの昔、パルミラはシルクロード交易の中継地として栄華を極めたオアシス都市であった。

3世紀後半、ローマ支配からの独立を企てたため、街はローマ軍によって破壊され、反乱の首謀者である女王ゼノビア(240〜275年頃)は捕らえられ、金の鎖に繋がれローマの町を引き回された。平山はこの悲劇の女王ゼノビアに敬意を示すため、ラクダに乗る人物に(先導役の男性を除いて)黒いベールをかぶった女性ばかりを描いたという。平山が描き続けた砂漠とラクダの隊商の幻想的なイメージは、悠久の時を越え、シルクロードを通じて行われた人々・文物・文化の交流の象徴であり、平和への祈りそのものであった。

古代ローマ遺跡 エフェソス・トルコ

シルクロード 平山 郁夫 2007 紙本彩色 171.0×728.0cm

当館2階大展示室の正面には、大シルクロードシリーズの締めくくりとして、古代ローマ時代の遺跡を描いた作品2点が展示されている(企画により展示替えあり)。この作品はトルコの南西、かつてエーゲ海に面した港町であった小アジア最大の古代遺跡エフェソス。古代ヘレニズム都市として、ローマの支配下に入ってからも東地中海交易の中心として繁栄した。本作は、全長7mを超える大作であり、崩れかけた列柱の上には、天翔る金色の騎馬軍団、アレクサンドロス大王の軍勢がみえる。東西文明の融合を夢見た大王が、東方大遠征の途上、エフェソスを訪れたのは紀元前334年であった。それから、2000年以上の時が過ぎ、いまや、荒れ果てた遺跡には野草が可憐な花を付け、羊の群れが横切っていく。平山郁夫は、時間をかけて丹念に絵の具を重ねることで、歴史の深み・重みが増すと語っていた。

シルクロード行くキャラバンー東・太陽ー

シルクロード 平山 郁夫 2005 紙本彩色 171.0×364.0cm

晩年の平山郁夫はシルクロードの砂漠を往来するラクダのキャラバンを描く「大シルクロード・シリーズ」を相次いで発表した。それは画家が終生、描き続けてきたシルクロード絵画の集大成ともいうべき連作であった。シリーズでは群青色とオレンジ色を基調とした作品が対になり、夜と朝、月と太陽、東と西が対比されている。駱駝のキャラバンは、楼蘭、アフガニスタン、インドのジャイサルメール、シリアのパルミラ遺跡を背景に東から西へと進んでいく。隊商の向かう先には、ユーラシア大陸の果て、トルコ、エフェソスそして、シルクロードの終着地点、ローマがある。平山郁夫はこのシリーズを当館のオープンのころから描き始め、亡くなる2009年の最後の院展まで描き続け、その総数は12点、2階の大展示室に展示されている(展示作品は順次入替)。

古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノ

シルクロード 平山 郁夫 2008 紙本彩色 171.0×364.0cm

当館2階大展示室の正面には、大シルクロードシリーズの締めくくりとして、古代ローマ時代の遺跡を描いた作品2点が展示されている(企画により展示替えあり)。この作品は、古代ローマ帝国の政治経済の中心地だったフォロ・ロマーノ。この遺跡には歴代皇帝たちの栄光・栄華の数々が眠っている。中央に見える大きな大理石の門は、セプティミウス・セウェルスの凱旋門。紺碧の空には、初代ローマ皇帝アウグストゥスと彼の率いるローマ軍の兵士たちの姿がおぼろげに描かれている。前3世紀に造られた25,000人収容できる大劇場など、大規模な数々の遺跡から当時の隆盛ぶりがうかがえる。

平成の洛中洛外(右隻)

日本 平山 郁夫 2003 紙本彩色 183.0×362.0cm

日本の室町時代に「洛中洛外図」と呼ばれる画題の作品がある。当時の都である京都の名所や神社仏閣、年中行事、市井の人々の様子が俯瞰的に描かれた絵画である。平山郁夫も室町時代の画題の一つである洛中洛外図をテーマにした作品を描き、2003年に≪平成の洛中洛外(右隻)≫、2004年に≪平成の洛中洛外(左隻)≫を発表した。これらの作品と合わせて画家は、個々の名所や神社仏閣、この地の伝統文化を担う人々にも目を向けて描いてきた。こうした着想は、シルクロードの集大成ともいうべき≪大唐西域壁画≫(2000年・薬師寺玄奘三蔵院)の制作が終わりにさしかかった頃とも言われ、日本文化の源流を求めてシルクロードを旅しつづけた平山は、ここで改めて日本の古都である京都に目を向けたのである。平山が現代の姿で洛中洛外を描くきっかけになったのは、「時移り、人変われど、日本の文化を育んだこの町は、私たちにとって永遠の都であると思う。世界が認めた「文化」としての京の町は日本民族が永い年月をかけて造りあげた芸術作品といえよう。私たちはこの町を誇りをもって次の世代に無事伝えなければならない。」からであるという。続けて画家は「私は京の町に限りない感謝と愛を込めて筆を執った。自分の生きた時代の京都を自分の手で描き残す。私はこのたびの作品を総称して「平成洛中洛外図」とした。」と述べている。

熱砂塵黒

シルクロード 平山 郁夫 1976 紙本彩色 91.0×116.4cm

画家の言葉

一寸先も見えない砂塵の先には長い路がつづく。砂嵐の中を隊商がもくもくと足を運んでひたすら旅をつづけ、行き来を繰り返す人間の姿。このような生活に対して感じる、ときには羨望に近い思いを込めて描いたものである。

文明の十字路を往く アナトリア高原 カッパドキア トルコ

シルクロード 平山 郁夫 2009 紙本彩色 171.0×364.0cm

標高 1,000メートルを超えるアナトリア高原の中心部に広がるカッパドキア。柔らかい地層と硬い地層が重なりあい、侵食されて生みだされた奇岩が延々と広がる一大奇観の地である。3世紀、ローマ帝国の弾圧を逃れたキリスト教の修道士たちが柔らかい岩をくり抜いて隠れ住んだ。以来、十数世紀もの間、ペルシアやイスラーム勢力の脅威に絶えずさらされていたキリスト教徒は次々と地下都市や僧院をつくっていった。文明の十字路であるカッパドキアの巨岩を背景にラクダのキャラバンが通りすぎる。ラクダの歩みはこの地を行き交った民族や文化の象徴であろう。
平山郁夫は亡くなる直前、病をおして本作を完成させ、人生最後の院展(第94回)に出品した。平山郁夫は、かつて、1966(昭和41)年、36歳のとき東京藝術大学の中世オリエント遺跡学術調査団で、カッパドキアの洞窟修道院壁画の模写に従事した。このとき生まれてはじめてシルクロードの地に滞在した体験が、シルクロードを終生のテーマとするきっかけになったと述懐しているが、くしくも人生最後の大作もまたカッパドキアをテーマにした絵であった。

流水間断無(奥入瀬渓流)

日本 平山 郁夫 1994 紙本彩色 171.0×727.2cm

平山郁夫は「シルクロードの画家」として広く知られているが、みずみずしい日本の風景も数多く描いている。

若かりし1959(昭和34)年の東京芸術大学の副手の時、学生を引率して東北写生旅行に行き、奥入瀬や八甲田山などを巡った。当時は被爆による後遺症で体調も思わしくなく、また創作上の不振なども重なった時期でもある。そのような状況の中で見た奥入瀬渓流について、平山は「生きる喜びを心から教えてくれた」という。そして、この時の思いをいずれ作品に残すことを強く決意し、この写生旅行から35年後の1994年に≪流水間断無(奥入瀬渓流)を六曲一双の大作で発表した。

コリントの遺跡

シルクロード 平山 郁夫 1978 紙本彩色 90.9×116.7cm

1976(昭和51)年の暮れから翌年春にかけて中東5カ国で個展「平山郁夫 The SILKROAD」を開催した画家は、ダマスカスからギリシアへスケッチ旅行に出掛け、アテネからコリント、ミケーネ、デルフィ、オリンピア、クレタ島、ペラなど数々の遺跡を訪れ、このときの旅について平山郁夫は「アレクサンダーの道をたどってきた私にとって、ギリシアはその仕上げとも言うべき地であった」と述懐している。

コリントス(コリント)はアテネから西におよそ80km にあり、ギリシア本土とペロポネソス半島を結ぶ交通の要衝である。コリントス地峡をはさみ二つの良港にも恵まれ、古代ギリシアの都市のなかでもきわめて早くから交易の盛んな都市として栄えた。本作に描かれた神殿は、前6世紀中頃に建造されたアポロン神殿である。現存するギリシア神殿としてはきわめて古く、コリントスのシンボル的存在である。石灰岩でできた円柱は高さ約7m、最大径は1.8m という巨大なもので、重厚な列柱がアルカイック時代の荘重な雰囲気を湛えている。

敦煌石窟九層楼

シルクロード 平山 郁夫 2007 紙本彩色 80.3×116.7cm

オレンジ色の夕映えのなかに朱色の楼閣がそびえている。東西文化が行き交う都市として栄えた敦煌は、約1000年にわたり492の石窟が造られてきた。延載2年(695)に創建され、大雄宝殿(第96窟)と呼ばれる九層楼は敦煌莫高窟のシンボルとも言うべき建物で、内部には初唐の大仏が安置されている。当初は石窟の前に四層の木造建築を付随させた形であったが、時代と共に改築し、中華民国の時に現在の形となった。画家は1979年にはじめて敦煌を訪れて以来、幾度となく同地を訪問し、敦煌を題材とした作品を数多く描き、その保護活動にも尽力した。本作は画家がその最晩年に描いた敦煌である。

平山郁夫が、生涯をかけて描き続けた
作品と、
シルクロードコレクションを
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